another alternative




 少年は生命の危機に瀕していた。これまで彼を日常的に蹂躙してきた者達が、今度はその命をも奪おうとしている。這々の体で床下に逃げ込んだが、そこにも追手が掛かりつつあった。
 幸か不幸か、そこには少年が隠していた脇指があった。それを寄越した人物を思いながら、縋るように手に取る。
(もう、いやだ、こんなの)
 そうする内にも、追手は迫る。自分を捕らえようとする手が、文字通り目と鼻の先にまで伸びている。
(もう――)
 少年は、手の中の脇指を握りしめた。


 志々雄真実は黙考していた。
 彼は維新の志士だった。といっても、大業成就の勲も今は昔、かつて助力した新政府に追われる立場である。
 とある屋敷に逃げ込んだところ、少年に見つかった。その家の息子だが、虐められてこき使われているらしい。そしてこき使われているだけあって、身体能力は並外れている。
 ――力を以て、自由を勝ち取れ。
 一振りの脇指を与えて、そう焚き付けた。要するに家人を殺せというわけだ。うまくすれば、立派な人斬りに孵化する金の卵が手に入る。五分と闘っていられない自分には、戦闘に長けた相棒が必要だ。
 だが、一向に少年がそれを履行する兆しはない。
(まだ迷ってやがるか。それとも、計画でも練っているのか)
 屋敷の内は至って静かである。
(まさか、仕損じたか。いや……)
 冷徹に、彼此の力量を値踏みする。
(そもそも手を下せなかったんだろうよ)
 若干なりとも少年に反撃できるとすれば、剣術を嗜んでいるという長男のみ。それも、真正の人斬りである志々雄から見れば、所詮は児戯も同然だ。そんな剣術ごっこに現を抜かしている坊々など、重労働で鍛えた少年の敵ではない。まして酔っ払いやうらなりは碌な戦力になるまいし、女子供は論外だ。
 自分の目に狂いはない。それだけの自信はある。つまりは、少年がためらったということだ。
(あの小僧のことだ。「人を殺して自由になるなんてできない」くらいのことは言い出しかねねえ)
 そう結論付け、少なくとも今夜は何事も起こるまいと踏んで、さっさと眠りにかかった。


 誰かが傍にいる気配がした。
 追われ身の性か、そういう気配には敏い。すぐさま起き上がり身構える。
「お前か」
 目に入ったのは、脇指を与えた少年だった。
「ごめんなさい。せっかくもらったのに、脇指、無駄にしちゃいました。
 脇指、志々雄さんに返します。縁の下に隠してあるんだけど、僕は取りに行けないから、悪いけど、志々雄さんが探しに行って下さい」
 やはりな。心中そうぼやき、だがすぐに、こうなる可能性を低く見積もった己の見立てを是正した。
「まったく。下らねえ情けをかけやがって……」
「えっと、情け? ああ……」
 志々雄の言葉を理解した少年は、ばつの悪そうな、困ったような笑いを浮かべた。
「そういうわけじゃないんです。僕が殺したって殺さなくたって、どうせ結果は同じことだったでしょうしね。あの人たち、志々雄さんがいるのに気づいてて、捕まえたがってたから」
 なるほどそりゃそうだ、と妙なところで納得した。
「そうじゃなくて……ただ、こうするのが一番楽だ、って、気づいたんです」
 ここへ来てようやく、志々雄は、事態が想定とは食い違ったものになっていることを察した。
「小僧……?」
「もう、いやになっちゃって。今のまま生きてたってつらいばっかりだし、あの人たちを殺して生きても、やっぱり同じくらいつらいだろうから。で、自分でするより、人にしてもらった方が楽だろうって思って。だから」
 少年が、伏せがちだった顔をぱっと上げた。
「志々雄さんの言う通りです。僕は弱かった。だから、生きられなかった。
 ここに来たのは、ちゃんとあやまって脇指を返したかったのと、それから、最後に言っておきたかったから。
 ありがとう。いっしょにいてくれて、話をしてくれて。本当にうれしかった。それから、さよなら」
 そう言うと、志々雄の顔を見つめてくすりと笑った。
「やだなぁ。そんな感情、志々雄さんには似合いませんよ。
 志々雄さんの心は、志々雄さん自身のために動かして下さい。志々雄さんみたいに自分勝手に生きられる人、そうはいないんですから」
 それだけを言うと、少年の姿がふっと消えた。しばらくの間暗がりを見遣っていたが、程無く自分一人がそこに取り残されていることを認識した。
「感情、か」
 ふと、少年の言葉が口をついた。
 思いもかけぬ指摘だった。言われて初めて、自身の内に湧き起こるある種の情動を自覚した。
「関係ねェ。俺はただ、俺の都合通りにやるだけだ」
 蔵の外から四、五人の騒ぐ声が聞こえてきた。刀の柄を握る手に力を込めた。


 夜が明けた。
 昨晩の嵐が嘘のように晴れわたり、すがすがしい朝の光が降り注いで、庭の空気をすすいでいた。
 蔵の戸が開いた。
 蔵の内外には、複数の男女の死体が転がっている。志々雄は、足場をふさぐ死体達を邪魔そうに一瞥し、その隙間を踏んで蔵の外へ出た。
 雨と朝日に洗われた庭を歩き回る。探し物をするためだ。
 程無く目にとまった、頸の千切れかけた子供の亡骸のそばから母屋の床下に潜ると、それは苦も無く見つかった。
 昨日まで志々雄のものであった脇指。埃と土の摺れ方や蜘蛛の巣の具合からして、誰かが床下に持ち込み、さらに奥へ抛り投げたのだろう。
 脇指を手に這い出すと、足元に横たわる遺体を改めて見下ろした。
 初めて明るい光の下で見る少年の姿。小さくて、痩せっぽちで、骨と皮ばかりの手足に、新旧の痣と傷がいくつも散っている。肩や背中には刀傷が。そして、中途半端に斬られた頸から噴き出した血が、こけた頬と襤褸着をべっとりと汚していた。
 無残で、痛々しい。そのくせ表情だけは、まるであたたかな布団にくるまって眠っているように安らかだった。
「なにが『そういうわけじゃないんです』だ。殺して生きるのがつらいってえなら、やっぱりお前の情けが元凶だ」
 少年の言う通り、志々雄は憤っていた。それは、生き抜くことを選べなかった少年の不甲斐無さにか、選ばせなかった良心にか。それとも、他の何者かに対してなのか。
 やり場の知れぬ感情をぶつけるように、あらん限りの力で手を握りしめた。主を失った脇指が、硝子のように砕け散った。




 「もしもあの時あのキャラが、違う決断を下していたら」というif物で、しかも碌な結果にならないという、地雷要素てんこ盛りの代物です。私の書くものこんなんばっか。






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