花の庭




 医師松本良順の依願により、その庭が一人の青年を迎え入れたのは、慶応四年の早春のことであった。
 この年、戦があった。戦というものの常に違わず、巻き込まれた者達は勝者と敗者とに分かたれ、勝者が敗者を狩り立てる惨禍が各地で繰り広げられた。だがその庭は、そんな世上の騒擾とは無干渉に、静かに、無心に、ただ美しく花を咲かせていた。
 青年は、敗者の側に属していた。名を、沖田総司といった。


   一 花の庭 〜 casket filled with flowers

 千駄ヶ谷は、見渡す限り田畑と百姓家と雑木林しかない、のどかな片田舎である。植木屋平五郎宅は、そんな一面の田野の中にあった。
 沖田を乗せた駕籠は、この家の前で止まった。風呂敷包み一つをかかえて駕籠を降りた沖田を、年配の女中が出迎え、庭へと招じ入れた。ヤスという名のこの女中は、初対面の挨拶もそこそこに、早速親しげに話しかけ、沖田を労った。
「お淋しいでしょう。お仲間とも離れて、一人でこんなところへ」
「あはは、そうですねぇ。でも、たまには一人っていうのも、気ままでいいですよ」
 快活な笑顔のまま、答えを返す。
 母屋の脇に出た途端、鮮やかなはねず色が目に飛び込んできた。
 それは、紅梅の花だった。母屋の裏手に植えられた梅が、薄青い空を背に従えて、今を盛りと咲き誇っている。
 見回すと、丁寧に刈り整えられた植木や庭草が芽を吹かせ、間に間に小さな彩りが萌していた。春先の花がちらほらと咲き、あるいは蕾を抱いて開花の時を待っている。
 ひときわ大きな桜の木の下には小さな池がしつらえてある。そのほとりには、遅れ咲きの水仙が清楚な立ち姿を見せていた。
「あ……」
 小さな声をあげて、桜の木に歩み寄った。一見まだ裸のようだったその枝が、よく見ると固いつぼみをつけている。もう二十日も経てば、優しい色の花をいっぱいに咲かせることだろう。
 そこは、花の庭だった。
「植木屋ですからねえ。小さい家でも、庭だけはうんと丹精していて。
 これが春になったら、綺麗に花が咲くんです。これからという時季に来ていただけて、良かったです」
 沖田の感嘆を見てとったヤスが、言い添える。まるで花見の名所に客を案内するような口ぶりだ。
「おヤスさん。それから平五郎さんも」
 沖田は、ヤスの方に向き直った。
しばらく、、、、の間、ご面倒をおかけします。どうぞよろしくお願い致します」
 そう言うと、深々と頭を下げた。
 庭は、彼の臨終のために与えられた場所であった。

 戊辰の戦では、沖田が身を置く新撰組も戦いに出、そして敗れた。
 敗走の中、もともと労咳を病んでいた沖田の病状は、最早行軍に耐えられぬ程に悪化していた。病人を戦場に伴うことはできない。局長の近藤は、沖田を除隊し平五郎に預けることを選択した。近藤にとっても断腸の決断であっただろう。
 そうして沖田は、この庭にやって来た。幼い頃から共に過ごした仲間達と、一足早い永訣を済ませて。
 沖田が間借りする小屋は、この庭の片隅に、梅の木々に取り巻かれるようにして建っていた。
 建てつけの悪い出入り口の戸をどうにかこうにか開くと、蟠っていた暗がりに外の光が差し込んだ。
「こんな、とても人の住むところでないあばら屋で申し訳ないですけれど」
 ヤスは、心底恐縮したように言った。
 謙遜ではない。沖田が来るというので慌てて掃除をし、横になるための場所に古畳を入れてはいるものの、この小屋は元来納屋である。床も壁も粗末な板地が剥き出しで、衝立で仕切った向こうには、植木屋仕事の道具が雑然と積まれている。
「いいんです、ただの納屋に見えた方が。こちらからお願いしていたことですし」
 沖田らは勝った官軍に追われる立場である。ここで匿っていたことが発覚すれば、沖田は勿論、平五郎達にも累が及ぶ。
 小屋に入って最初に目に留まったのは、薄暗がりの中に浮かび上がった白い影だった。
 それは、花だった。庭から剪ってきたのだろう、水仙が一輪、鶴首の花入に生けられていた。もし自分の存在が知れたなら、この水仙を真っ先に隠さなくてはならないと、益体もないことを考えた。
 庭に面した広い戸口を開くと、白い光がわっと一時いちどきになだれこみ、暗所に慣れた目を驚かせた。しばし目をしばたたかせ、ようやく明るみに慣れてくると、眼前の光景が像を結んだ。大きく開けられた戸口の向こうに、花の庭が広がっていた。

 むせかえる程に濃密な香りを感じて、目が覚めた。既に夜は更けている。
 物音を立てぬよう気遣いながら、庭に下りる。香りの正体はすぐに分かった。
 真昼の空の下で映えていた紅梅の鮮やかさは闇に溶け、日の光の中では目立たなかった白梅の花が、冷えた月光を浴びてかすかにその姿を現している。視界が闇に覆われているからだろう、その香りが昼間とは比べ物にならないくらい強く感じられる。
 余人ならば早春の情趣として賞でるであろう香気。だが沖田にとってこの花の香は、ただ一人の男にのみ結び付く。
 梅の花をこよなく愛した人。いつも自分をそばに置いてくれた人。この朝別れを告げた人。
「土方さん……」
 その名が、声になってあふれた。
 かろうじて涙がこぼれるのだけは抑えた。もう涙をこらえる理由もなくなったというのに。
 目を閉じてぎゅっと襟元を掴む。そうして己の内から込み上げてくるものに耐えながら、中天の月が傾くまで、そこに立ち尽くしていた。


   二 お庭の姫君 〜 day and night

 開け放たれた戸口から、朝の光が差し込む。そのすがしい光を受けて、沖田は目覚めた。
 枕元には、未だ刀を置いている。その隣には手桶が二つと手ぬぐいが並べてある。
 部屋の隅には、使い古しの小さな文台と硯箱が置かれていた。新撰組の誰かが寄越したものだ。今の沖田にとって、慰めといえば知り人との手紙のやりとりくらいであることを、仲間達は知ってくれていた。
 簡単に身なりを整え、羽織をひっかけると、戸口から庭に下りた。
 朝の空気はまだひやりと冷たい。こんな時に表にいると、今は亡きかつての主治医が自分を叱りにとんで来るような気がする。
 庭に面した側の戸には、庇と、簡素な濡れ縁が付けられている。一頻り庭を歩き回ると、この濡れ縁に腰掛けた。
 この場所からは庭がよく見渡せる。納屋でありながら縁が設けられているのは、ここから眺める光景が、この庭の中でも最も美しいからなのかもしれない。
 縁に張られた板を、指の腹で撫でた。雨と歳月に洗われた板は、色が抜けて朽ち骨じみた灰色になり、木目を肋のように浮き立たせていた。
 朝餉を済ませると、再び濡れ縁に腰掛けて庭を見遣っていた。
 梅の花はもう無い。まるで沖田を出迎えるために持ちこたえていたかのように、ほんの二、三日の内に、たちまち散り萎れてしまった。
 代わりに、早春に相応しい淡い色合いの花々が、至るところに点を打ったように咲きこぼれている。日増しに輝きを取り戻してゆく日の光と相俟って、庭に華やぎとのどけさとを与えていた。
 どれほどの間そうしていたのか、気がつくと日が高くなっていた。真昼の日向は穏やかな光にあふれ、ぽかぽかと暖かい。
「おや、沖田さん」
 ヤスが声を掛けてきた。彼女とは、朝夕の食事を持ってくる時と、たまたまお互い庭に出ている時に、顔を合わせる。
「今日は暖かいですね」
「ええ。こんなお日様いっぱいのところでのんびりしていると、とっても気持ちよくって」
 そう言って伸びを一つすると、少しでも太陽に近づこうとしているように、日の差す方を向いて立ち上がった。
 花で満たされた庭に佇む沖田は、まるで憂いなど知らぬ天女のようで、同じ現し世の者とは思えないという気さえしてくる。入れ替わりに濡れ縁に腰掛けたヤスは、数日来感じていたままを口にしてみた。
「沖田さんは、本当に新撰組のお人なんですか?」
「ええ、そうですよ。……もしかして、違っているように見えました?」
「だって、あの沖田総司が来るって聞いたんですよ? どんな立派なお武家様が来るかと思えば……」
 新撰組の勇名は、当時江戸にまで聞こえていた。とりわけ沖田は、その中でも指折りの剣客として知られていたから、さぞかし威風辺りを払うような豪傑がやって来るのだろうと、ヤスは思っていた。
 しかし、実際に目の前に現れたその人は、あまりに美しくたおやかで、何より、今にも消え入りそうに儚い。
 この方の正体は、故あって名乗れぬ、さるやんごとなき辺りの姫君なのではないか。半ば本気で、そんなことを考えたりした。
 そういえば、宮様の中にも、公方様にお味方なされた方がいるというではないか。それが、この政変でお命さえも危うくなって、せめて病を得た姫君だけでもと、新撰組隊士の間に隠して、落ち延びさせなさったのではないか、と。
「あんまりお綺麗だから、どこぞのお姫様かと思ったんですよ、本当に。
 こんなむさくるしいところまで落ち延びていらして、お気の毒に、なんて」
 沖田はそれに何も答えず、ただ困ったような顔を返した。
「でも、このお庭も綺麗でしょう? 御殿のお庭には劣るかもしれませんけれど」
「屯所にも、綺麗な桜が咲いていました。
 屯所の桜が一番美しい、と言っている人もいたんです。その人は、桜より梅が好きだったみたいですけれど。
 毎年、二人して屯所で、見るだけのお花見をしていましたね」
「桜は、もうしばらくですね……他に何か、ご覧になりたいお花はありますか? ここにないものでも、今から間に合うなら、用意しますし」
「そうですねぇ、いろいろ楽しみではあるんですけれど……では、六の花を」
「六の花、ですか。すみません、それは多分、私も分からない……」
 花には常人より詳しいヤスも、沖田の言う花がどのようなものであるのかすぐには見当がつかず、考え考え話す内にようやく思い至った。紅白の梅のすぐ前に咲く、冷たい純白の「花」に。
「沖田さん、それ、分かりにくいですよ」
「あはは、ごめんなさい。これでちょうど一巡だなーって思ったんで」
 そう言ってほがらかに笑う。
 まばゆい陽だまりの中で微笑むその姿は、ヤスの目には、日盛りの陽光よりもなお春の訪れに似つかわしく見えた。

「お姫様、かぁ……」
 夜更けの静寂の中、小さくつぶやき、枕許の刀を手に取った。
 重い。ほんの三月ばかり前まで自分がこんなものを振り回していたとは、とても信じられないくらいに。しばらくすると、ただ持っているだけなのに、手が震えてくる。
「違いますよって言ったって、これじゃあ、説得力ないなぁ」
 それでもかつては、確かにこの刀を振るっていたのだ。敵と映る全てを斬らんとする鬼の子の目をして、両の手を血に汚して。そんな自分の姿を見ていたならヤスは、「どんな立派なお武家様が来るかと思えば、とんだ鬼を抱え込んでしまった」と嘆いたのだろうか。
 その時、庭で物音がした。常人ならばまず聴き逃す程の小さな音を、沖田の耳がとらえた。
 振り向くと、猫が一匹、庭先を横切っていくところだった。沖田の目におびえたのか、瞬時に身を翻し、逃げ出した。
「ああ、逃げなくたっていいんですよ」
 あわてて植え込みの中に飛び込んだ猫を見送りながら、ぽつねんと独り言ちた。
「斬ったりしません。……もう、斬れません」
 不意に、胸の奥から熱い塊が迫り上がってきた。咄嗟に手近に置いていた手ぬぐいを取り、口許を押さえた。
 咳が収まってから手ぬぐいを離すと、そこにはやはり血滴が散っていた。
 滴りこぼれた血を、雪の上に落ちた真紅の寒椿にたとえた文章を、どこかで読んだことがある。そんな連想がはたらいたのは、この花の庭に身を置いているせいなのかもしれない。
 枕元の手桶に手ぬぐいをひたした。中に満たした水がたちまち赤く汚れる。手ぬぐいを揺り動かすたび、赤い靄が水中に揺らめく。
 もう一つの手桶からすくった水で口をすすぐと、沖田は、汚れた水の入った手桶を提げて、庭に出た。
 部屋を閉め切ってはならない。人を近づけてはならない。喀いたものはすぐに自分で始末する。
 沖田は、松本の言いつけを忠実に守っていた。
 歩くたび、血を溶かした水がたぷりと揺れ、月の光をちらちら弾いている。
 その水を、誰も来ない納屋の裏に、そっと捨てた。


   三 花守り 〜 duty

「沖田さん、お手紙ですよ」
 その声を聞くや否や、横になっていた沖田は、病人らしからぬ素早さで上体を起こした。知り人からの手紙と聞くと、少々具合の悪い時でも、ぱあっと顔を輝かせて、弾かれたように跳ね起きる。
 手紙は近藤からだった。受け取ると、急ぎの報せでないことを確かめた後、元の通りに折り直して文箱に収めた。いつもそうだ。ヤスがその理由を尋ねると、「だって勿体無くって」と頬を赤らめた。
「平五郎さんは、お仕事ですか?」
「はい。いつもの通り、お得意さんの家を廻っています」
 沖田が平五郎宅にやって来て、もう十日ばかりになる。その間、平五郎は毎日早くから日暮れまで、草木の手入れに飛び回っていた。それが沖田には少々意外だった。
「これだけ物騒になっても、やはりお庭の手入れのご依頼はたくさんあるんですね」
「ええ、相手は生き物ですから。どんな時だって、やっぱり世話は欠かせません」
「ああ、そっか……」
 沖田は、自らの不明を恥じた。
「戦が起こっただとか、そんなことは、お花には関わりのないことですよね」
 たとえ人間じんかんに擾乱があろうがなかろうが、草木は変わらず枝を伸ばし、幹を太らせ、葉を繁らす。そのために肥えた土や水を必要とする。
(このお庭だって、そう)
 同じことは、この平五郎自身の庭にもいえる。沖田が目にする平五郎は、いつも庭の手入れをしているか、あるいはこれから始めようというところだった。
 実のところ、沖田は平五郎とは話らしい話をしたことがない。
 ヤスが裏庭に来るのは、沖田に用があるからか、家事の合間に一息つくためだ。だが平五郎は庭仕事のために庭に来る。だから、顔を合わせても、最低限の挨拶を交わす他は、なかなか話しかけられずにいた。
 以前交わしたヤスとの会話を思い返してそんなことを考えながら、庭の花を一つ一つ見て回る。その内の一群が、常に比べてほんの少し元気がないように感じた。
「もしかして、お水が足りていないんですか?」
 毎日眺めていたためか、漠然とながら彼らの飢えや渇きのようなものを感じ取れるようになっていた。
 その時、平五郎が姿を現した。今日こそはと思い立ち、思い切って声を掛けてみた。
「次は、この子達のお水遣りですか?」
 彼がわずかに表情を変えたのが見て取れた。
「分かるのか?」
「ええ。何となく、ですが」
 だがそれ以上を問い返してくることはなく、黙々と作業を続けていた。
「あの、私にも何か、お手伝いをさせていただけませんか? 何かお役に立てれば……」
 それを聞いて、ぴたりと手を止めた。ややあって、
「そういうわけにはいかん」
 ただそれだけを答えて、また作業に戻っていった。

 それから数日。
 沖田は、平五郎に手伝いを申し出たことを後悔していた。
 彼がヤスにさえ庭仕事を任せないことから察すべきだった。草木の世話とは、そう簡単に素人に委ねられる仕事ではないのだ。
 素人目には単純に見える作業でも、実は高度な判断や技術を要するということはしばしばある。まして自分は病人だ。いつ寝込んで世話を放ったらかすことになるか、知れたものではない。
(余計なこと、言っちゃったなぁ)
 いつものように濡れ縁に腰掛けてそんなことを考えているところへ、平五郎がやって来た。普段に増して話しかけづらく、へどもどしていると、逆に平五郎の方から「今日は具合は良いのか?」と尋ねてきた。そして「はい」と返答があったのを確かめて、持っていた苗を沖田の前に並べ出した。
「これは、貴船菊だ」
 事態が呑み込めずにいる沖田に構うことなく、解説を始める。
「もともと山野の花だから、丈夫で、世話は簡単だし、手間も掛からん」
 そこまで聞いてようやく、沖田は、平五郎の意図に気づいた。
 平五郎に教わりつつ植え付けの作業を済ませた後、世話の仕方について簡単に説明された。
「晴れの日が四日五日続くようなら、水を遣る。遣る時には、地面に深く浸み込むよう、たっぷりと遣る。
 順調に育てば、秋口には花が咲くはずだ」
(秋に……)
 季節の名に感じた間遠さを、だが眼前の平五郎がすぐに払拭した。
 この庭には彼らがいる。秋にはきっと花を咲かせた貴船菊を見てくれている。
 柄杓を取り、溢れんばかりに掬った水を小さな苗にそそぎかけた。
「どんどんお水を吸って、綺麗な花を咲かせて下さい」
 ふと見上げると、桜の木が目に入った。枝につけていたつぼみがゆるんで、花びららしい色を匂わせていた。


   四 五月闇 〜 vision of spring

 沖田が長い昏睡から覚めた時、庭の桜は既に盛りを過ぎていた。
 花がほころび始めた時分から、沖田は横になったきりになり、盛りを迎える頃には昏々と眠り続けていた。折悪しく花散らしの雨さえ降り、ようやく庭を眺められるようになった沖田が目にした桜は、萎れた花弁が疎らに枝にしがみついているばかりになっていた。
「ここでも、幽霊桜が見られるのですか?」
 花弁に代わって小さな葉が桜の枝に萌し始めたある日、沖田が、そんな突拍子もないことを言い出した。
「何です、それは?」
「屯所で見たことがあるんです。その年も、忙しくて桜が見られなくて。もう桜はみんな散って、葉桜になってしまったはずなのに、夜、庭を見てみると、桜が満開になっていたんです」
 その様を思い返しながら、恍然と語る。
「もしかして、篝火を焚いていたんじゃないですか?
 そういう時には、物の色が分かりにくくなるんです。それで、葉の芽を花と見間違えた」
「そうなんですか……」
 説明されても、まだ腑に落ちない顔である。
「でも、この間、このお庭でも見たんです。見たというか、見たような気がしただけですけれど……」
「見たい見たいと思ってらっしゃるから、そんなものが見えるんですよ」
 「桜など、来年にも見られます」と続けるべきか否か。逡巡の末、ヤスはその言葉を飲み込んだ。
「庭に咲くのは、桜だけじゃありませんから」
 しばしの間の後、どうにかそれに代わる言葉をひねり出した。
「桜の後は、八重桜。桃もこれからですし、もうじきつつじも綺麗になりますよ。また具合の良い時に、見て回っていただけたら」
 その言葉通り、桜の季節が過ぎた頃から、庭の彩りがいや増していった。
 花入の花も毎日違っていた。床に伏しがちな沖田のために、ヤスがこまめに取り替えているのだろう。
 八重桜、山吹、卯の花、躑躅、藤。花入に挿された折々の花が、移ろう季節を間近に伝えてくれた。長く眠っていることもあったから、もしかしたら、一度も目にせぬまま取り換えられていった花もあるのかもしれない。

 橘が薄甘く匂っている。暦は既に五月さつきを迎えていた。
 五月の空は暗い。いつも鈍色の雲が重く垂れこめ、その下の街や村や山野をもの憂い薄暗がりの底に沈めている。
 夜ともなれば、人家も疎らなこの辺りでは、雲が月や星の光を遮ってしまえば、闇より他に見えるものは何も無くなる。そして、闇一色の中に、どこからともなく橘の香がただよってくる。五感を占めるのは、ただその覚束無い香りのみ。
 この時季は雨が多い。雨垂れが始終屋根を叩いている。風があって雨が濡れ縁の際まで吹き込む日には、敷居にぶつかりはじけた雨滴が、古畳のへりを潤した。
(これじゃあ、今日もお庭に出られないなぁ)
 薄墨のような空気を呼吸しながら、沖田は、軒や葉枝を伝う雨滴の滴りに、日がな一日聞き入っていた。そのしめやかな音は、何とはなしに安らぎを与えてくれるものの、同時に所在無さを際立たせもした。
 この頃にはもう沖田が庭を歩きまわることもなかった。それは雨天のせいばかりではない。沖田は、ほとんど床についたきりになっていた。時には昏睡に陥っていることもあった。
 どれ程の間眠っていたのか、自分では分からない。ただ、目が覚めて、庭の緑が色を変えていれば、あるいは鼻腔に触れる花の香りが違っていれば、随分長く眠っていたのだろうと感じられた。
 初夏の草木の成長は速い。伸びようとする幹や枝の軋る音までが聞こえてくるような気がする。そして偶さかの晴れ間には、目に痛い程の鮮烈さで庭を染め替えていく。かつて、育ち盛りの若い隊士が、頻りに成長痛を訴えていたことを思い出した。きっと彼らの若い力が、今の、そしてこれからの新撰組を支えていくのだろう。
 このところ、親しい者達からの手紙もめっきり減った。そして沖田も、机に向かい筆を手に取るだけの力さえ、最早失いつつあった。目を覚ましている間には、とりとめのないことを考えているか、こうして昔を思い出してばかりいる。
「昔の人の袖の香ぞする」
 古歌が口をついた。この歌を教えてくれた人も、疾うに故人となっていた。
 花入の花は晴れた空の色をした紫陽花に替わっていた。庭のどこかには紫陽花も植わっているのかもしれないが、沖田の床からは見えなかった。

 橘の香が消えた。
 表を見ると、月の光が照らす庭に、桜が咲いていた。
 季節は雨月。だが、朧月の淡い明かりを受けてほの白く浮かび上がった姿は、紛れもなく桜の花のものである。
「綺麗……」
 いつしか、誘い出されたように樹の下に佇み、満開の花を見上げていた。
 今が散り際なのか、ほろほろ、ほろほろと花びらが降る。樹の下の小池にも、いくひらとなく散りかかる。
 水面には月影が映っていた。それが、花びらが水面に触れるたび、まどかな波紋に乱される。まるで、この花が幻でないことを証すように。
 この月の揺らぎが、花と現世を結んでいる――月影が消えれば、花も消えて無くなるのではないか。そんな疑念が脳裡を掠めた。
 その時、水面の月が翳り出した。五月の黒雲が、月の面を覆い始めていた。
「待って!」
 思わず水面に手を伸ばした。だがそれが届くことはなく、月は次第に隠れてゆく。花の像も暗く薄らぎつつある。
 やがて最後の一片が消えた時、庭は常の黒闇に帰した。その夜沖田が見た全てが消え失せていた。桜の花の満開も、朧月も。
 後にはただ文目も分かたぬ闇が広がっていた。

 明くる日は、激しい雷雨に見舞われた。
 五月闇の季節が終わろうとしていた。


   五 青空 〜 bliss

 目が覚めた。
 眠る前とは空気の熱さが、匂いが、肌触りが違っている。かなり長い間眠っていたのだろう。
 周りには誰もいない。このところほぼつきっきりで看病してくれているヤスだが、今は姿が見えない。他の用に出ているか、あるいは、自分があまり長いこと目を覚まさないものだから、医者を呼びに走っているのかもしれない。平五郎は、いつもの通り植木の手入れに廻っているのだろう。
(優しい人達だ)
 心の底からそう思う。
(それから、みんなも)
 沖田への手紙が来なくなった。そのことが何を意味するか、沖田には分かっていた。
 既にこの世にない者。手紙どころではない過酷な状況に置かれた者。そしてそれを生き延びた者達は、程を経ずして沖田を忘れる。
 それでいい。自分は、今までずっと彼らから、身に余るほどの慈しみを与えられてきた。これ以上、一体何を求めようか。
(おヤスさん。私は初め、一人でも淋しくないと言いましたよね。
 あの時は口先だけだったかもしれないけれど、でも今は、本当に、心からそう思えるんです)
 この庭を、ヤスや平五郎を選んでくれた仲間達。皆、自身の明日をも知れぬ中で、どれだけ苦心して、この臨終の場を見出してくれたのだろう。
 ここに皆はいない。けれども、ここは皆の優しさで満たされていた。
 首だけを表へ向けて見遣った庭には、生き生きとした緑が横溢している。いつか満開の幻を見せてくれた、あの桜の木にも。
(見せたかったなぁ、みんなにも。とっても綺麗だったから)
 だが、それを一番見せたい相手は、桜が美しいだけでは満足しない。彼はきっとこう言うのだ、「屯所の桜が一番美しい」と。
(土方さん、どうして屯所の桜があんなにも美しかったか、分かりますか?)
 そこではない所にいる慕わしい人に向けて、問いかける。
(それはきっと、二人で見上げた桜だったから)
 土方の目に映る桜は、いつだって美しくあってほしい。今年も、来年も、その次もずっと。
 その様を思い描いた。どこか遠い所で、誰かと共に、あの日のように美しく咲いた桜を見上げている。土方は笑っていた。沖田もつられて笑みをこぼしていた。
 光が差した。眩しくて目を開けていられない程の、真夏の日差しが。
 今目に映っているのは、白い光。
 次に目を開いた時には、何が見えるのだろう。心配そうなヤスの顔だろうか。また少し姿を変えた花の庭だろうか。もしかすると、いつかの幽霊桜をまた見ることができるかもしれない。そんな幸福な光景を夢見ながら、そっと目を閉じた。


<おまけ>
 幼い頃、お姫様に憧れていた。
 綺麗な着物に、豪奢な調度。たくさんの女中達にかしずかれ、身の回りのことは何でも彼女達がしてくれる。
 そんなお姫様の日常を空想していた。その美しさと安逸と、それらを得た幸運とを羨みながら。
 けれど――今、自分の目の前によこたわるお姫様は、果たして幸せなのだろうか。花々に囲まれた部屋の中で昏々と眠り続ける、この美しい人は。
「沖田さん、ご飯ですよ」
 そう何度か呼びかければ、やがて瞼を開き、にこりと笑みをつくる。了承と感謝を示す言葉の代わりだ。
 匙の先で掬った重湯を、一滴ひとしずくずつ口の中に垂らしてやる。具合の悪い日には、こうして私が手を貸してやらないことには、食事も摂れない。
 命をつなぐための最低限の活動さえ、他人頼み。もし私がこの人の世話を二、三日も怠けたなら、ただそれだけのことで、きっとこの人は死ぬ。
 それなのに。
 ――あなたは、つらくはないんですか?
 もしも今そう問うたなら、やはりこの人は微笑むのだろう。かつて同じ問いを投げかけた時、この人が返した答え、そのままに。
 ――私は、幸せです。




 沖田さんの日常 in 千駄ヶ谷です。今回のテーマは、「植木屋さん設定を最大限活用しよう!」と「予告篇の水遣り沖田さんを書いてみよう」。
 ちなみに『PEACE MAKER 鐵』再開記念やり逃げSP第2弾にあたります。しかし再開に間に合わせることができず、出来上がったのは4ヶ月後。その時点で既に原作との齟齬がちらほら発生していたのですが、まあ気にしない気にしない(ぉぃ)。






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