北風




 師走の寒空は、灰色の雲の下、町並までも味気ない色に沈ませて、乾いた風を吹き立てていた。
 相模の瀬田屋といえば、御浦では知らぬ者のない米問屋の大店である。常の年ならば暮支度でごった返しているこの屋敷も、今年ばかりは、重たい瓦屋根の下に身を縮こめるようにして、ひっそりと静まり返っている。その内では、病の床にある瀬田屋の主が、七十有余年の生涯を閉じようとしていた。
 主が急の病によって危篤に陥ったのは、十日余り前のことだった。先を見越した医師の指示で、店の重役にある者と近親が主の側に集められ、今それぞれに末期の床を囲んでいた。
 場は静まり返っていた。主は始終眠ったままである。医師が時折申し訳のように脈を取る他は、皆息を殺してじっと居竦まっている。
 妻は既に亡い。妾も先年子を産んで死んだ。片の枕辺には、子らを引き連れてきた嫁のお鶴がいる。逆の枕辺には、年が明ければ五つになる令息――妾腹の子で次男の宗次郎が、殊勝気に控えていた。
 母親によく似た、美しい顔立ちの少年である。その表情に悲嘆や不安の色は無く、寧ろ薄い微笑みさえ浮かべて見える。情動を表に出すなと徹底して叩き込んだ、彼の躾通りの振る舞いである。否、そもそも、碌に顔すら合わせたことのない父親の死を悲しめという方が、どだい無理な話なのかもしれない。
 ふとしたはずみに、お鶴と宗次郎の目が合った。
「取り澄ましたもんだねえ。父親が危篤だっていうのに」
 お鶴が、聞こえよがしの嫌味を言った。
 その時、主が目を開いた。
 音に聞こえた大店の主であり、同時に一代の通人としても知られた男の精力に満ちた風貌は、幾分影を潜めてはいるものの、それでも垂死の病人とは思い難いしっかりとした眼光が、その目に宿っている。
 番頭、嫁、息子、孫達――彼の末期の枕元に参集した一同の顔をぐるりと見遣ると、徐に問うた。
「義右衛門は、来ぬか」
 目があった番頭が答えようとしてためらった。主は、それを肯定の返答に代えた。
(やはり、来ぬか)
 力無い息を一つき、父親の臨終にも現れぬ長男を――最後に顔を見、声を掛けた日の出来事を追憶し始めた。

   ×   ×   ×

 義右衛門は放蕩息子であった。
 主もそれを憂慮してはいた。だが多忙にかまけ、何か意見するでもなく、息子の為すに任せていた。それをいいことに義右衛門は、深酒をする、酔って暴れる、喧嘩する。気づいた時には、実の親にも手の付けられない無頼漢になっていた。
 宗次郎が京に囲った妾の許に生まれたのは、そんな時だった。
 主は一門の者を集め、宗次郎の出生と命名を告げた。そして、その名の由来を語ろうとした。
「宗次郎に与えた『宗』の字の意味するところは何か。この『宗』とは」
「宗主の宗」
 一同の内から、そう言を発する者があった。皆が振り返ると、義右衛門の次男の八之助が、賢しら顔で笑っていた。
「八之助の言う通りだ、義右衛門」
 動ずることなく、主は肯んずる。
「己の行状を省みて、覚えが無いとは言わさんぞ。
 今のお前に店は任せられん。宗次郎とは、瀬田屋の嫡男との意を込めてつけた名だ」
 義右衛門は戦慄いた。それは、義右衛門から長男たる地位を剥奪するという宣告にも等しい言葉だった。
 憤怒に歪んだ顔を主に向ける。だが一言も発することなく、荒い足音だけを残して、彼は弟の生誕披露の席を去った。

 列席者が去った広間に、主と番頭が残っていた。
「僭越かとは存じますが、義右衛門様のご処遇の一件、あれで本当によろしかったのでしょうか」
 多忙な主に代わって、番頭は義右衛門を、血を分けた息子も同然に可愛がって育ててきた。手を取って手習いを教え、四書五経を読み聞かせた。正月には凧や独楽を作ってやった。いかに乱暴者とはいえ、かつての愛し子が実の父から見放されるのを、哀れと思わずにはいられなかった。
「義右衛門様にしてみれば、お前はもはや息子ではないと告げられたも同然。義右衛門様のお振舞に難があることは百も承知しておりますが、それにしてもお気の毒なように思えまして……」
「儂は、半端なことをしておる」
 番頭にとって思いがけない言葉を、主は返した。
「嫡男の素行が悪ければ、ただして跡取りとし、あらたまらぬとなれば、さっさと見切りをつけて勘当すべきだ。それは百も承知しておる。
 なれど、儂はまだ望みをかけてしまうのだ。あのように言うておけば、こんどこそあの馬鹿息子も目を覚ますのではないか、とな」
 仰いだ主の横顔には、自嘲のような苦笑のような、不確かな笑みが浮かべられていた。長年仕えてきた番頭出さえ初めて目にした、頼りなげな表情だった。
「宗次郎こそは、跡取りに相応しく、品行正しく徳高い人間に育て上げる。もし義右衛門が改心すれば、宗次郎が良き補佐になる。それがならぬなら、前言に違わず宗次郎を跡取りとするまで」
 これで義右衛門の素行が改まらぬなら、今度こそは彼を勘当する。その覚悟は決めてある。
 ――それでも、お前は儂の息子だった。
 次郎とは、次男を意味する名。たとえ縁を切り離すこととなろうとも、かつては互いに父と呼び子と呼んだ、もう一人の息子の存在を証す名。
 この日の遣り取りが、父子の最後の対面、最後の会話となった。義右衛門の行状が輪をかけて酷くなっていったことは言うまでもない。

   ×   ×   ×

 ――先年申し伝えた通り、瀬田屋の跡取りは宗次郎とする。ただし、宗次郎は年少ゆえ、成人までは義右衛門を後見とする。瀬田屋一門、奉公人一同、みな心を合わせて店を盛りたててゆくように。
 主としての責務を一通り果たし終え、稀代の紳商と謳われた男は、静かに瞑目した。




 瀬田宗次郎のモデルは『新選組血風録』の沖田総司だというので、「じゃあこんなところも似せてみよう」と思いついて書いたものです。






戻る

inserted by FC2 system