掌編集 2
◎るろうに剣心
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霊前に香華が供えられた。上等な線香の品の良い香りが、細い煙とともにたちのぼる。
吉原浄閑寺では、軍属の一党に惨殺された新造女郎華火の弔いが執り行われていた。
弔いの費用を届けにきた方治は、それに立ち会うことを許された。死後の世界など信じぬ合理主義者の方治ではあるが、追悼の意思を表すため新仏に手を合わせた。
華火は、吉原に逗留する方治の世話をしていた。しようと努めてくれていた。その結果はといえば、幼い禿と一緒になって傍で大騒ぎするし、淹れる豆茶は大体飛び上がるくらい苦かったし、釦をつければ取れたままの方がまだ不恰好でないくらいの出来だった。
それでも、彼女の愚直な優しさと朗らかさは、方治にとって、何よりの安らぎとなっていた。そのことに気づいたのは、それを喪ってからであったけれど。
「名前で呼んでおくれよぉ」
ふと華火の言葉を思い出した。それは、たった一つ華火が方治に願ったことだった。その願いに応えぬまま方治は吉原を離れ、その間に華火は殺された。
今にして思えば、それなりの時間を共有しながら、一度たりとも名前で呼ばなかったというのは、不自然でさえある。どうして名を呼ばなかったかは自分でも分からない。ただ華火に然程の関心を払わなかっただけのことか。それとも、「私は遊びに来ているのではない」と、己の真面目さ忙しさを誇示したかったのだろうか。「女にかまけるつもりはない」と。
せめて今、名を呼んでやろうと思った。思考も感情も失くした躯に呼びかけたところで何の意味もない。けれど、何かをせずにはいられなかった。
その時、はたと気づいた。
(お前の名は、何という?)
「華火」という源氏名は、彼女にとっては、姉女郎との紐帯を示す大切な名なのだろう。しかし方治は彼女をその名で呼びたくはなかった。
(名前で呼んでくれ、と言っておきながら、お前は一度も本当の名を聞かせてはくれなかったな)
故人に何も語りかけることなく、方治は寺を後にした。長ったらしい戒名が書きつけられた札は一瞥さえしなかった。その後一度だけかつての姉女郎の前で華火について話した時、方治は華火をただ「彼女」と代名詞で呼んだ。
<橙彩の綬>
山間の小寺を流浪の僧が訪い、一夜の宿を乞うた。寺の住職は快くそれに応じた。
「今時、こんなところへお出でになるのは、行脚中のお坊様か、酔狂な旅のお方くらいです」
住職はそう語った。明治維新に伴う廃仏毀釈の余燼は、数年を経た今もなお各地で燻っている。この寺は焼き討ちや略奪にこそ遭わなかったようだが、それでも台所事情が苦しいことに変わりはあるまい。寺を寺として維持しようとするなら、稼ぎに精出すわけにもいかぬ。
通された本堂の真正面に、寺の本尊が鎮座していた。
不空羂索観音。
例に違わず、三目八臂の尊体に鹿の皮を纏う。ただ、常とは異なり、その手からは三昧耶形には見えぬ何かが垂れ下がっている。
「この寺だけの慣わしですが、世の幸薄い子供達が救われるよう願いをかけて、羂索を持たれている御手に、橙色の帛綬を結び付けるのです。
親と死に別れた子、貧しい家の子、親の情愛に恵まれぬ子に、どうか幸いがありますようにと」
「祈りや願いでは、何も救えはせぬ」
僧の評価は辛辣だった。
像に布きれを結わえ付けたとて、子供達の境遇は変わらない。子供達がそれを見、込められた善意を感得すれば、あるいはささやかな救いとなるのかもしれないが、彼らがここに来ることはない。
それは、僧自身の苛烈な体験に由来する思想である。口にすれば非礼にあたる。それでも言わずにはいられなかった。
「仰せの通り。故に、お志を」
「……成程」
住職の一言で、その意図は読めた。だが僧にはそれに十分応える力はなかった。
――どうするか。何ができるか。
延べられた薄べったい床の中で、僧は、眠りに落ちるまで考え続けていた。
* * *
若い旅人が石段を登っていた。
目的地はその先にある山合いの寺である。小さな寺で、特に見所があるわけでもないのに、参拝客が引きも切らないという。
長い石段を登りつめ、本堂へ足を踏み入れた。
その途端、彼の目には、観世音の掌から溢れ出す金色の光条が映った。
実際には、仏像が光を放っていたわけではない。光条と映ったものは、像の手に結び付けられた、無数のリボンだった。
陽の光のようなあたたかな色のリボンが掌から広がり、堂内を明るい彩りで満たしている。もともとは羂索を持つ手に結ぶものであったらしいが、それでは足りなくなって、八臂の全てに結ばれている。
『この寺では、参拝客が本尊の手に、寺で授かる橙色のリボンを結ぶんだ』
寺の存在を教えられた時の言葉を思い出す。
宣伝する資金も目玉もない無名の寺ながら、流れ者や行脚僧達がこの慣わしを広め、いつしか数多の人が訪れるようになった。初めに喧伝し始めたのもやはり旅の僧侶であったという。この寺を訪れてくれ、それができないなら、他の誰かに伝えてくれ、と。
堂を出ると、子供が声をそろえて書物を読む声が聞こえてきた。寺の住職は、様々な事情で親の養育を受けられない子供を引き取り育てている。本堂の裏手に建つ寄宿舎を兼ねた学堂と、そこで使われている書籍や文具、毎日の糧は、リボンを「授かる」際に納める「志」が形を変えたものだという。
『もう一つ。リボンは、仏様に結ぶだけじゃない。三寸くらい切り取って、服や持ち物のどこかに付けておくんだ。
それがあの寺に参ったっていう証拠になるからな』
それは、善行の証明を掲げることで、名誉と利益を得ようとするものか、それとも――
(これを見た誰かの、救いになるかもしれないから?)
手の中のリボンを摘み上げ、くるりと輪にした。さてどこにどう付けたものかと、緩々思案を始めながら。
◎ドリフターズ
<innocent world>
「信さんは、与一さんのお兄さんのことって、知ってるんですか?」
信長とエルフ達が連れ立って歩いている最中、雑談の中でこんな質問が出てきた。
「うんにゃ。兄貴が十人いる、っつーくらいしか聞いてねえ」
「そうですか……」
「何だ? 何か気になることでもあんのか?」
満足のいく返答を返せなかった代わりに、質問を発した理由を訊いた。
「だって、与一さんの話すお兄さんって、何ていうかこう、いまいち掴めないっていうか、あいまいっていうか……」
「だいたいあり得ないですし、与一さん以上の美人が十人とか」
それは信長も感じていた。そしてその印象から、ある可能性を想定してもいた。
――与一、お前は覚えていないかもしれないけど、お前の兄様達は優しくて、
それからとても綺麗な人だったよ。
いつも一緒に遊んでもらって、時にはケンカもして。
この間、また文が来ていたよ。元気でいるか、勉強や鍛錬はしっかりしているか、
お勤めはちゃんと出来ているか、って。
兄様達の期待に応えられるように、恥にならないように、お前も頑張らなきゃね。
子供の脳は非常に柔軟で、時にはただの伝聞や空想をも現実の記憶として定着させるという。
与一の十人の兄達――その中には、十一人目の弟についてただ当該の人物が存在することをしか知らぬ者もいたことだろう。
「でも実際、実在する気がしないよなー」
エルフ達の雑話は続く。
「お前ら、それ、与一には言うなよ」
戒めを受けたエルフ達は顔を見合わせた。彼らは要領を得ないながらも「はあ」と頷いていたが、バカ正直かつクソ真っ直ぐな同居人はそうもいくまい。彼が同じ疑念を抱いたなら、さてどうするか。次の話題に移りつつある雑談に付き合いながら信長は、そんな思案を巡らし始めた。
<Cross talk>
慶長六年の春のことである。一人の老爺が、路傍の子らを相手に昔語りをしていた。
「『よっぴいてひょうど放つ』。那須与一は凄いぞう。飛ぶ鳥三羽いりゃ三百は落とす……ってのはさすがに無理だが、騎兵が何十騎と森ん中駆けてくのを、離れた木の上からこう、ひゅっと」
「まっで見てきたごと喋うんな」
通りかかった流れ者の男が、その背に声を掛けた。
「年寄りの悪い癖じゃ。許せ」
「ほうか」
ただそれだけの問答を交わし、男は去った。その間、老爺は一度として男の方を向くことはなかった。男もまた、振り返らなかった。
* * *
「なあなあじいちゃん、続きは?」
子供達が話の続きをせがんでくる。
「そうさな、次はにゃあ……」
語りたいことはあった。けれどもそれは、他の者にとっては未来に属することだった。未来を語ることは禁忌であると弁えていた老爺は、今までそれを決して語らなかった。
だが、この日老爺は、それがすでに過去になっていることを確信した。流れ者となっていたあの男の出現によって、確信することができた。
「次は、薩摩隼人の勇武を伝えて名高い『島津の退き口』じゃ!」
――TO BE CONTINUED
「How do I call your name ?」:一部に「その翳、離れがたく繋ぎとめるもの」と齟齬をきたす内容がございます。もう読んでるのに。 「橙彩の綬」:まさに夢物語。「慣わし」にはモデルがありますが、作中の記述とは全く異なる内容です。 「innocent world」:伝承にはいろいろあるし、解釈には幅がある。とはいえ、いくらなんでも無理があるだろこの設定! と、自分でも思います。 「Cross talk」:最終回妄想です。前半のみでも後半ありでも、お好きな方をお選びいただけます。 タイトルの出典:Mr.Children「innocent world」・I've「Cross talk」 |