夢路の子




 こんな夢を見た。

   *   *   *

 ある夜、客が来た。人目を引くほど端正な顔立ちに、愛嬌のある笑みを浮かべた男性だ。
 男性は片膝をつき、視線を下げて自分に話しかけてきた。こんな話し方をする客が存在することに、まず驚かされた。
「突然ごめんね。今日は、ちょっと変わったことを頼みたいんだ」
 そう言って男性は後ろに下がり……代わって自分と向かい合ったのは、よく似た顔立ちの男の子だった。その子の両肩にポンと手を置いて、話を続ける。
「よかったらだけど、この子の相手をしてほしいんだ。ああ、相手っていうのは、一緒に話したり、遊んだり、そういうこと」
 確かに変わっていた。そんな要求をしてくる客など、聞いたことがない。
 戸惑いはしたが、断るという選択肢はなかった。客の求めを拒むなど、ここでは――この廓という世界では、許されないのだから。

 男性は「夜明け頃に迎えに来る」と言い残してどこかへ行ってしまい、あとは男の子と二人きりになった。
 育ちのいい子なのだろう、自分の前で行儀よく座っている。身につけている洋服や鞄も上等だ。
 歳は一つ二つ上くらいか。だが、傍からは彼の方がよほど子供らしく見えるに違いない。それというのも……
(きれいな目……)
 澄んだ、純真そのものの瞳。やっかむ気も失せるくらいに美しい。
(こんなにきれいなもの、見たことない)
 きっと、彼の心の清らかさが目に見える形で表れたのが、この瞳なのだ。彼は、ここがどういう場所で、目の前の着飾った子供が何をしているかなど、夢にも思い描けぬままここに来てしまったに違いない。
(駄目だよ。こんなところに来てはいけないよ)
 そう思いつつ、口には出せない。
「あのさ……」
 しばらく続いていた沈黙を、彼が破った。
「一月ほど前、父さんとここの前を通りかかったら、聞いたことない楽器の音が聞こえてきたんだ。
 それで振り返ったら、君がこんな……知らない楽器を弾いてるのが、表の大きな窓から見えた」
 話しながら、手振りで楽器の形を示す。細長くて、底の方が少し膨らんでいて……。
 二胡かと見当をつけ、彼に見せてみると、思った通り目を輝かせてうなずいてくれた。
「で、その話を父さんにしたんだ。そしたら、父さんが、君に会わせてくれるって」
(なるほど……)
 あの男性の意図が読めた。男性は、自分の子供と大して変わらぬ歳の子供が身をひさいでいるのを知り、子供の相手にかこつけて助けようとしてくれたのだ。せめて片時なりとも休息を与えるという形で。すぐに立ち去ってしまったのは、自分に気を遣わせまいとする思いやりなのだろう。
 ならば、男性自身に報いることはできないまでも、目の前にいる彼のために、できるだけのことをしたい。
(どうすれば……)
 しばし考えた末、弓を手に取った。

 一曲弾き終えると、彼は拍手でねぎらってくれた。
「ありがとう。もう一度聞きたいと思ってたから、すごく嬉しかった。
 お礼にね、僕からは……」
 そう言うと、鞄から本を出してきた。両手でしっかり抱えないと落っことしてしまいそうな、大きくて分厚い本だ。
「これ、見せてあげる。僕のお気に入り。
 父さんに買ってもらったんだ。ほんとは大人が読むような本なんだって」
 いそいそと、こちらに向けて本を差し出す。その目はきらきらと輝いていて、彼の浮き立つような気持ちがありありと伝わってきた。お礼と言いながらも、大好きな本を他人に見せたくて仕方ないのだろう。だが自分には、それに応えることができない。
「ごめんなさい、字が読めないの……」
 事実を伝えて謝った。きっとがっかりするに違いない……そう思っていたが、彼は少しの間ぽかんとしていただけで、すぐに元の楽しそうな顔に戻った。
「大丈夫、僕が読み上げればいいんだよ」
 驚くほどあっけらかんと問題を片付けて、さっそく頁を繰り始める。
「ええと……君の好きな動物って、何?」
「好き……。好き、は分からないけど……」
 動物に対して、好きや嫌いという感情を持ったことはなかった。そもそも動物に接する機会がない。それでも、とにかく知っている名前を挙げようとした。
「そうだ、馬とか牛とかなら分かる。時々そこの窓から、下の通りを歩いてるのを見かけるから」
「ウマかぁ……」
 さっそく彼はウマの項目を引き当て、読み始めた。
「奇蹄類はひづめが奇数、偶蹄類はひづめが偶数である。
 例えばウマは、奇蹄類でひづめが一つであり、第三指のみが著しく発達している」
「きているい、ぐうているい……ええっと、だいさんし……」
 さっぱり意味が分からないまま、聞き取れた音を繰り返す。
「ああ、第三指っていうのは、三本目の指っていうことだよ。ウマは一本の指だけで走っているんだ」
「一本だけなのに、三本目?」
「うん。もともとは人間と同じで、ウマも五本の指を持っていたんだ。今残っているのは、人間でいう中指。だから、第三指」
「難しいことを知ってるんだね」
「うん。父さんに教えてもらったんだ。父さんは獣医さんで、動物のことなら何でも知ってるから」
 誇らしげに父を語る。最前少し話しただけでも察せられたが、きっとあの男性は、心優しくて賢い、彼にとって最高の父親なのだろう。
「すごいんだね」
「君もすごいよ。あんなにきれいな音が出せるんだもの」
「きれい……?」
 それは、自分が彼に対して感じたことだ。同じ言葉が、まさか自分に向けられるとは思ってもみなかった。
「うん、きれい。僕、あんなの聞いたことがない」
 そんな風にほめられたのは、初めてだった。ほめられたのに、喜ぶよりもむしろうろたえてしまう。だからだろう、彼は不思議がるようなきょとんとした表情になった。
「あ、ごめんなさい。なんだか自分でも、よく分からなくて……。
 何だろう、もっとそう思われたいっていうか……もっとうまく弾けるようにならなきゃって、そんな感じがしてる。
 嬉しい、なのかな? これ……」
 そう説明するが、彼は不思議そうにしたままだった。おかしなことを言ってしまっただろうか……?
「君、難しいこと考えるんだね」
「そう……?」
「うん。普通、嬉しかったら嬉しがって、それっきりだと思う。
 変わってる。でも、面白い」
 面白いという言葉の意味は、やはりよく分からなかった。けれども、自分を気に入って、ほめてくれているのだとは、何となく察しがついた。
 だから、彼が自分にくれたのと同じ言葉を返した。
「ありがとう」
「……うん、こちらこそ!」
 自分が彼と目を合わせて話していることに、その時初めて気づいた。

 翌朝、昨夜の男性が彼を迎えに来た。
 もうこれっきり、二度と会うことはない。一夜限りの思い出だ。そう思っていたのに……
「ねえ、君。僕の友達になってよ」
 彼は、そんなことを言い出した。
 ――駄目だよ。こんなところに来てはいけないよ。
 昨夜と同じ言葉が、脳裏に浮かんだ。だが、声は出ない。ちゃんと言わなくちゃと思いながらも、唇を動かせない。
 何も答えずにいるものだから、彼の表情がだんだん陰っていく。あわててどうにかしようとして、ついうなずいてしまった。途端に彼の顔がぱあっと明るくなる。
「やった! ねえ、また来るからさ、そしたら、一緒に遊ぼう!
 絶対、約束だよ!」
 喜び勇んで畳みかけてくる。そして、返事も聞かないまま、手を振って去っていった。


 それから時々、彼と二人で過ごした。
 一緒に本を読み、彼の話を聞き、夜が更ければ、同じ布団にくるまって一緒に眠る。
 眠る前に、それまで読んでいた頁に臙脂色の平紐を掛ける。すると、次に彼が来る時には決まって同じ頁にその紐が挟んであって、そこからまた読み始めるのだ。
 本に出てくる言葉は知らないものばかりだったけれど、初めのやりとりでこちらの無知を察したのか、彼はいつも、自分が質問するまでもなく解説をつけてくれた。父親譲りの蘊蓄を傾けながら、物を知らない自分に、何度も何度も教えてくれる。
「シカは、他の草食動物が食べない、木の皮などの硬い部位を食物とすることができ、生存競争において優位に立ち得るのである」
「もしかして……反芻できるから? 牛みたいに。えっと、胃が四つあって……」
 そう尋ねると、彼は驚いたようだった。
「その話、覚えててくれたんだ」
 目を瞠る彼に、うなずいて答える。
「だって、忘れたくなかったから……」
 彼の言葉は全て、かけがえのない宝物だ。一文字だって忘れたくない。一字一句をそらんじるくらい必死に頭に詰め、彼のいない時にはそれを思い返していた。そんなことを繰り返すうち、少しずつでも知識を身につけていたのかもしれない。
 それでも、もともと何も知らなかった自分は、到底彼には釣り合わない。この程度のことは、同い年くらいの普通の子供ならば、きっと当たり前のように知っているのだろう。
「ごめんね……やっぱり、私相手じゃつまらないよね。私はなんにも知らないから……」
 つい、そんなぼやきを漏らしてしまった。こんなことを言えば、彼を困らせる……気づいた時には遅かった。
「えーっと。なんで君がそんなこと言い出したのか、よく分からないんだけど……」
 案の定、彼は戸惑っているようだった。あわてて取り繕おうとするが……
「君だけだよ、僕とこんな話ができるの。さすがに父さんは別だけど」
「え……?」
 返ってきたのは、思いがけない返事だった。
「ここまで話についてこられる、っていう意味でもそうだし……そもそも、みんなこんなに付き合ってくれない」
 にわかには信じられない話だった。
 彼は学校に通っている。そこには、彼と同じくらいの知識を身につけた子供たちが、たくさんいるはずだ。家に帰れば、父だけでなく母もいる。それなのに……。
 さりとて「嘘だ」とも言えず黙っている自分の前で、彼はにっこりと笑った。
「僕は、君と話してるのが、一番楽しい」
 それは、自分の願望だろうか。その無邪気な笑顔には、欺瞞など微塵もないように見えた。


「今日は、秘密基地を作ろう!」
 ある日突然、彼がそんなことを言い出した。その手には、いつもの本の他に、二尺ほどの棒が数本と紐が抱えられていた。
「ひみつきち……?」
「そう、秘密基地。ここの布団は大きいから、ちょうどいいと思って。一緒にやろう?」
 「秘密基地」が何なのかも知らなかったが、言われるまま、棒切れを組み合わせたり、支えたりするのを手伝った。彼は、それを器用に括り、うまく釣り合いをとって布団を掛けて……あっという間に、布団の中に空洞を空けた、不思議な空間を作ってしまった。
「これが、秘密基地?」
「そう。家でも似たようなのを作ってる。
 夜、ランプを持ってきて、中で本を読むんだ。で、見つかりそうになった時は、支えを倒したら布団に戻る」
「ランプって……そんなの布団の中に入れて大丈夫なの?」
「ほんとは駄目だけど、ちょっとだけ。まあ火舎とかはちゃんとしてるから」
 そんなことを話しながら、彼はもぞもぞとその空間に入っていった。促されるまま、自分もそれに続く。
 中に収まってはみたものの、わざわざこんな空間を作る意義は、やはり見出せなかった。
「うーん。普通に本を読むのとは違うの?」
「こうするとね、夜更かししてても母さんにバレないから、怒られない」
「そうなんだ。便利だね」
「うん。でも、それだけじゃないよ。楽しいんだ」
「楽しい?」
「そう。僕だけの場所を好きに作って、めいっぱい好きなことをするの」
 語る彼の目が輝いている。大好きな……でも少し彼を遠く感じてしまう、健やかな子供らしい輝き――。
「そっか……。
 でも、ごめんなさい。ここにはランプがないから、本は読めない」
「謝ることないよ。こうしてるだけで楽しいし、それに……」
 彼が身を寄せてきた。互いの肩と肩が、ぴたりと触れ合う。
「こうやって、すぐそばで一緒にいられるのが、すごく嬉しい」
 触れ合った場所から、彼のぬくもりが伝わってくる。そういえば、何度もこの布団で一緒に眠ったはずだが、その時でさえここまで体を近づけることはなかったかもしれない。
「うん、それなら分かる……嬉しい。
 あったかくて、気持ち良くて、それから……他にもいっぱい」
 何も怖くない。何も嫌なことを考えなくていい。彼といると、ただ幸福感だけに満たされていられる。
 もしかすると、彼も自分に、わずかなりとも同じ感情を覚えてくれているのだろうか?
 ほんの少し……少しだけ、こちらからも身を寄せた。身じろぎした途端、釣り合いが取れなくなったのか、支えにしていた棒が倒れてしまった。
「あ……つぶしちゃった……」
「あちゃ〜。やっぱり棒だけだとこんなもんか。次はもっと本格的にやりたいなあ」
「じゃあ、こっちでも、何か使えそうなものがないか探しておくね」
 不思議だ。夜毎の暴力のための道具さえ、彼と一緒だというだけで、たちまち遊び道具になり、隠れ家になり、別世界になる。
「うん……あなたの言う通りだった。
 二人で、こうやって……こっそり何かしてるのは、楽しい。すごく楽しい」
「だろう?」
 そう言って、顔を見合わせて笑った。彼といる間だけは、自分も彼と同じ目をしていられるような気がした。


 その日やって来た彼は、いつになく真剣な顔をしていた。いつも大事そうに抱えている本の入った鞄を、今日は持っていない。
「父さんから聞いたんだ」
 硬い声で、そう告げる。それを聞いただけで、彼に何があったかを悟ることができた。
(ああ、知ってしまったんだ……)
 今まで通ってきたここがどういう場所で、そして、遊び相手だった自分がどんなことをしているのか。それを知った彼は、この場所と自分を蔑み、そして離れていくのだろう。
 分かっていたはずだ。彼とても、いつまでも無知な子供のままではいられない。
 来るべき日が来てしまっただけのこと。これまで楽しませてもらっただけでも御の字ではないか。そう自分に言い聞かせて、続く言葉を待った。
「たくさんお金を貯めれば、君をここから助け出せるって。
 だから、もうここには来られない」
「え……?」
 思いがけない言葉だった。恐れていた侮蔑の語を、彼からぶつけられることはなかった。
 だがそれは、罵られる以上につらい宣告だった。
 伏せていた視線を上げ、改めて彼を見つめ直した。いつの間にか少し大人の男に近づいて、もう男の子とはいえない、年頃の少年の顔になっている。
「……嫌」
 それが、自分の口からこぼれ出た返答だった。
「助けてなんてくれなくていい。行かないで」
 堰を切ったように、感情が言葉になって噴き出していく。
「ここは嫌。でも、会えないのはもっと嫌。だから……」
「お金が貯まったら……君を助けた後で、また会える」
 希望を与えようとする言葉を、首を振って拒絶した。
 そんな約束は、千に一つも叶えられない。たとえ、それが心からの約束であったとしても。ここはそういう所だ。
 先に他の人に身請けされたら? よそへ売り渡されたら? 病気をもらって、死ぬか放り出されるかしたら?
 自分は自分のものじゃない。信じて待ち続けることさえ、したくたってできない。
 あふれ出そうになる言葉を、どうにかこらえた。その代わりに、生まれて初めて涙をこぼした。
 彼は何も答えない。こちらの言葉を拒まない代わりに首を縦に振ることもせず、ただ押し黙ったまま、辛そうに眉をひそめている。
(駄目。この人に、こんな顔をさせては……)
 いけないと分かっているのに、言葉は止められても、涙は止められない。
「ごめん、なさい……もう……」
「これ、持ってて。半分は僕が持ってる。半分は、君に」
 彼が握らせてきたのは、臙脂色の平紐だった。片方の端は切りたてらしく切り口が揃っていて、片方は編み目がほどけて箒のようにばらけている。それを見て、ようやく彼が、宝物であったはずの本を持っていない本当の理由に気づいた。
 ――駄目だよ。こんなところに来てはいけないよ。
 今更になって、ようやく思い出した。
 出会った時、口にできなかった言葉。もしあの時、自分がちゃんと彼に伝えていたなら……。
「……分かった。もう言わない。
 だらだらしてると余計つらいから、もう行って。……さよなら」
 それだけを切り口上のように告げ、背を向けた。後ろで足音が遠ざかっていく。
 窓から通りを見下ろし、小さな後ろ姿を見送った。やがてそれが見えなくなると、一人になった部屋で、手の中の紐を握り締め、声を振り絞って泣いた。

   *   *   *

 気がつくと、布団の中に横たわり、見慣れた天井を見上げていた。
 あいまいだった意識が徐々に覚醒していく。しばらく経って、ようやく今までのことは全て夢だったのだと理解できた。
 目尻が少し濡れていた。もしかしたら、声も上げていたのかもしれない。
 立ち上がって、窓の外を確かめた。日はまださほど高くない。昨夜の客を送り出し、短い仮眠を取っていたところだったと、ようやく思い出すことができた。
 表の通りを、荷馬車が通り過ぎていく。
「きているいはひづめがきすう、ぐうているいはひづめがぐうすう」
 呪文のような章句が、口を突いて出た。
(これは……)
 薄らぎゆく記憶にかすかに残る、夢の中の言葉。お気に入りの本を読み聞かせてくれる声が、おぼろげながらも耳に残っている。
 その意味はもう思い出せない。ただ動物にまつわる話だと聞かされていたことを覚えているばかりだった。
 思えば不思議な話だ。無学な自分には生物学の知識などない。人は、己の知らぬ言葉を夢に見ることはできるのだろうか。
 それでも、その言葉は夢の少年のよすがだった。口ずさめば、彼との思い出がよみがえる。澄んだ瞳が、無邪気な笑顔が……たとえ夢まぼろしであるにせよ、彼と共に過ごせた喜びが、心を満たしていく。
「夢の中でも、幸せだったよ」
 誰にも届けられない感謝の言葉を、そっと唇にのせた。
「ありがとう……」


<おまけ>
 美しく舗装された街路を、二頭立ての馬車が通り過ぎていく。
「きているいはひづめがきすう、ぐうているいはひづめがぐうすう」
 廓を出て以来、久しく口に上せることのなかった言葉を、ふとつぶやいた。
 その後、自分はある青年に身請けされ、自分とは無縁のはずだった、外の世界での自由な暮らしを与えられた。今はこうして、その恩人と並んで街の大路を歩くこともできる。
「よく知っているな」
 彼がこちらに視線を向ける。人目を引くほど端正な顔立ちだが、淡泊な物言いと射るような鋭い眼差しから、ともすれば冷たい印象を持たれがちだ。……本当はとても優しい人なのだけれど。
「子供の頃よく読んでいた本にも、同じことが書いてあった。『例えばウマは、奇蹄類でひづめが一つであり、第三指のみが著しく発達している』とな」
「……!」
 その瞬間、自分はどんな顔をしていただろう。彼が口にしたのは、忘れもしない……あの、夢に出てきた本の一節だ。
「どうした?」
「あ……い、いえ!」
 あわてて首を振る。彼に余計な思案をさせないために。そして、自分の荒唐無稽な思い付きを否定するために。
「いえ、何でもありません」
 ……そんなはずがない。まさか、あの夢中の少年が、目の前の恩人と同一人物であるなど。たまたま同じような本を読み、同じ知識を持っている。それだけのことだ。
 それでも、空想せずにはいられない。この人の心だけが体を抜け出して、時間も空間も越えて、夢の中で自分に会いに来る。もしもそんなことができるなら……。
「……今度はにやけているぞ?」
「ふふっ。いいえ、何でもないですよ。
 それよりね。僕も、いろいろ知ってるんですよ。例えば、『シカは、他の草食動物が食べない、木の皮などの硬い部位を食物とすることができ……』」




 はい、夢オチです。
 だって、やってみたかったんですもの、時系列ガン無視のこの組み合わせ! こんなの夢でもなきゃできないでしょう!?(まあ、きちんと作ってタイムスリップ物にできなくもなかったような気はしますが)
 で、作中でもしっかり夢オチとお断りしておこうと思った結果、2回連続で同じイントロを使うという体たらくに。あかんやん。
 ちなみにおまけはベタなやつです。あってもなくてもいいです。
 今回の注意事項:生物学の研究史をちゃんと調べたわけではないので、「それ大正期にはまだ知られてへんで?」っていうネタがあるかもしれません。悪しからずご了承ください。






戻る

inserted by FC2 system